ハッキョとわたしの思い出【1】

私が小学校1年生を迎える春。

存在さえ知らなかった同郷の人たちが我が家を訪ねてきた。

「子どもたちに自国の言葉、文字を学ばせましょう!」女性同盟支部委員長だった。

日本でそんなことは無理だと思っていた両親は、この女盟委員長の言葉に明るい日差しを感じたそうだ。

日本学校で身体検査、仮入学までした私にとっては幼心に先が真っ暗だった。

立派な校舎に広い運動場。たくさんのお友達と赤いランドセル並べ通学路を歩く姿・・・

その列を横目で見ながら通学バスを一人寂しく待ち、遠い朝鮮学校へ行くことになるとは。

古く小さな校舎に狭い運動場。その運動場も半分は近隣の人の所有地で、真ん中をトタンで区切ってあった。

いつしか子供たちが開けたのかそのトタンに、人ひとりが通れるほどの穴を開けて、両面の通用口としていたギザギザの通路。よくもケガをしなかったと、今オモニ、そしてハルモニの立場で思う。

当時、県下でも最も古い学校で、常に親たちが補修作業をしていた事を思い出す。

子ども心に胸を膨らませたのは、ある日、学校に大きな丸太や材木が次々と運ばれ、たくさんのアボジたちが集まってきたとき、新校舎が建つと勝手に喜んで勘違いしていたことを、今でも同級生たちと会うとその話で盛り上がる。

校舎がこれ以上傾かないよう、地面と校舎の外壁を支えるための材木であり、期待はずれと補修を終えた外観は、何とも言えぬ、形、眺め・・・しばらくは落胆な日々が続いた。

そんな学校でも、両親は学校を愛し、守っていくのに必死だった。

学校の宿直は、男性教員プラス、アボジたちも組み込まれていて、毎年大みそかの当番は決まって私のアボジだった。

 セベインサは毎年アボジが学校から戻ってきてからだったことや、常時、家には誰の担任でもない先生たちがよく来て食事はもちろん、お風呂まで入っていき、新しい肌着までオモニが用意してあったことなど、今でもいろいろ鮮明に覚えている。

朝鮮学校の存在さえ知らなかった両親が、子どもをウリハッキョへ通わせると同時に、日本でのウリハッキョの重要性、必要性を感じ取ったようだ。

余裕などまったくないが、生きることと、子どもを育てること、学校を守ることは、何一つ欠かすこともできず、費やす労力、気持ちはつねに同時進行、全力投球だった。

土にまったく合わないコリアンの種を、ここに蒔かざるをえなかったため、その都度肥料を与え、必ずコリアン本来の花や実を実らせようと、並々ならぬ力を注いできた一世の両親。

 その両親が他界した年齢に達した分、あのバイタリティと”学校を守る”という意欲、力、気持、・・・足元にも及ばない。

 時代は変わり、同じ環境では全くないけれど、母が子を守る母性愛は今も昔も何ひとつ変わりはない。

 今、ウリハッキョを守ろうとする我が子の姿に、ハルモニとしてその我が子を守りたい。

孫を守りたい。

 力不足でも必ず守りたい。孫たちが通うウリハッキョを。…


【北区60代のハンメ】


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